2016.9.17「介護保険の行方」指定発言者のお話し

指定発言者7名の皆様からのお話しです。

介護の分野から、藤原るかさん(ホームペルパー、共に介護を学びあい・励ましあいネットワーク主宰)から「介護サービスの現場で、この数年苦労していること」を、
長谷川俊和さん(ランダルコーポレーション・福祉用具プランナー)から「制限が多くなった介護用品レンタルの仕組みにどう対応するのが望ましいか」についてお話しいただきました。

(分野ごとに分けたので、実際お話しされた順序とは異なります。)

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介護の分野に続き、医療の分野から伊藤真美さん(花の谷クリニック院長)から「「自宅で最期まで」をかなえるために介護保険を使う時の問題と提案。」を、
菅原由美さん(全国訪問ボランティアナースの会キャンナス代表)から「医療保険と介護保険の両方に関わる訪問看護の現場と問題」を、
畑中典子さん(かくの木薬局・薬剤師)から「街の薬局・訪問薬剤師の立場からみた介護保険の問題」についてそれぞれお話しいただきました。

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介護、医療に続き、福祉の分野から渋沢茂さん(中核地域生活支援センター長生ひなた所長)から「障害者支援の立場から、介護保険を利用する時の問題と提案」を、
朝比奈ミカさん(ひと・くらしサポートネットちば代表理事)から「重度障害を持つ人たちも共に生きる社会を」についてお話しをしていただきました。

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以下は渋沢茂さんのお話しです。

渋沢と言います。初めまして。千葉県の県単の相談事業、中核地域生活支援センターで働いています。制度の隙間にいる方、制度で足りないことのお手伝いをして、それを地域の課題として考え合っていく。そんな仕事です。

本日は障害者支援を行っている立場でこの集会に参加させていただきました。

障害福祉サービスを使っている方が65才になる等して介護保険の対象になった時、原則として介護保険を優先して使うこととされています。あくまでも「原則として」ということなのですが、このことが強調して行われている実態が散見しています。それによって次のような問題が生じています。

一つ目は、質的にも量的にも、これまで使っていたサービスを使うことが出来なくなってくるということです。住み慣れたグループホームから高齢者の制度に基づくグループホームへの転居を促されたり、居宅ヘルパーの使える時間が減ってしまったりということ等です。二つ目は費用負担の問題です。同じサービスを同じだけ使っても介護保険制度に移行することによって本人負担額が増えてしまうことがあります。

一つ目の問題について、繰り返しになりますが介護保険の優先はあくまでも「原則」です。障害者福祉に固有のサービスを利用する場合や、介護保険のみで必要な支給量が確保できない時には両者を併用することが出来ます。障害を持っている方たちの暮らし方は(きっと介護保険の対象になるお年寄りに比べても)とても個別的です。ですから障害福祉サービスの支給量を決める仕組みは介護保険制度のように一律的ではありません。一人一人の暮らしに必要なことはご本人を中心にして相談事業者やサービス提供事業者等が共通理解をして、それによって決定機関によって支給量が決定されます。平成15年に施行された支援費制度の時から障害福祉サービスはそのように運用されてきたはずです。「介護保険優先」の原則が過度に強調されている現状があるように思います。一人一人の暮らしに必要なサービスを考えることから思考を始めることが重要です。その時に、それを制度の改定につなげていく意識を持っていたいものです。

二つ目の費用負担の問題はより本質的です。平成17年に障害者自立支援法が制定された時、障害者関係の団体などから賛否の意見が噴出しました。反対意見の中で最も本質的なものは利用者負担の問題だと僕は思っています。従来の支援費制度では利用者は支払い能力に応じた負担をすることとされていた(応能負担)ものが、自立支援法では利用したサービスの量に応じた負担をする(応益負担)とされたのです。これは単に負担額の多少の問題ではありません。2001年にWHOが発表した国際分類から障害は個人の要因だけでなく、環境によっても社会的不利が作られるという考え方が主流になっています。だとすれば、「生きにくさを緩和するための支援は社会が障害者に保障するべきものであり、障害者個々人が対価を支払って購入するものではない。」という批判です。僕はこの考え方に全く賛成です。この後に政府は負担額の上限を細分化したり、各種の補足給付が行われる等、実質的には支払い能力に応じて負担をするような体を作ってきました。が、誰が支払うべきかという問いには答えが出されていないままです。負担額が増えることをそのまま改悪と考えているのではありません。社会が障害のある方や介護が必要なお年寄りに必要な保障をどの範囲で行っていくのかの議論が足りないのではないかということです。

皆さんはどう思われますか?

(2016年9月17日指定発言の内容を基に再構成しました)

以下は、朝比奈ミカさんのお話しです。

私は今発言された渋沢さんと同じ、千葉県にしかない中核地域生活支援センターという、障害があってもなくてもさまざまな年代の方からの相談に対応する事業でソーシャルワーカーとして働いています。 7月に神奈川県相模原市の津久井やまゆり園という重度障がい者の施設で、19人の方が殺害されるという衝撃的な事件が起きました。この事件を巡って考えていることを少し発言させていただこうと思います。 あの事件を巡っては、世界各国の首脳からもメッセージが発信されて、私も「ヘイトクライム」という言葉を初めて知りました。 19人の方々の失われてしまった命を思うと、非常に痛切の念に襲われます。そもそも、なぜあのような大きな施設がつくられたのか。施設が建てられた当時のあの場所は、非常に人里離れた地域です。同様の大規模施設は、全国各地にあるのですが、いわゆるコロニー思想で作られた施設であったことは間違いないと思います。そこに大勢のの最重度の方々が生活することを余儀なくされていた、という状況を無視して、一人ひとりの方々の生活や暮らしや人生も語られないままに、その施設が防犯カメラを付けたり、カギを付けて強固になっていくというそういう流れ自体に違和感を感じているということが一つです。

それからもう一つ、今議論されているのが、精神科の措置入院の出口を少し絞っていこうという話です。私たちは仕事のなかで精神科の入院から対応した方の支援、それから医療監察法で処遇されている方々の支援にも関わっていて、今回の事件の加害者である彼のような状況の方を地域でどういう風に支えられるかというと、非常に苦しいな、と思います。けれど、彼自身も生活のしづらさを抱えていたであろうし、その背景に非常に深い孤立や孤独があったのだろうとも想像しています。彼は取り調べの中でも、社会にもっと自分の行動が受け入れられると思った、というような発言をしたと聞いています。 彼がこの社会の某かの空気を背負って、恐らく凶行に及んだのだろうと考えた時に、あの事件の意味をもっと考えていく必要があると思って発言させていただきました。